Chosokabe Motochika First Battle 1/25 Replica is here!!

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Tomeko
Chosokabe Motochika First Battle 1/25 Replica is here!!
This article has been written in Japanese.
We apologize for your inconvenience, and your for your understanding.

講師は平安末~幕末までの日本史スキー、トメ子です。ごきげんよう。

本日紹介するのはこちら↓



●長宗我部元親公初陣之像 1/25レプリカ
こんにちは、元親です



凄い名前ですね(商品名も人名も)。

長宗我部元親さんが初陣した時の銅像……の、レプリカです。
銅像自体はかなり大きなもので、全高7メートル、槍の長さだけでも5メートルあるそうです。

さらに追記すると、苗字が「長宗我部(ちょうそかべ)」、
名前が「元親(もとちか)」になります。

本日はこちらの元親公フィギュアをサンプル撮影致しましたので
写真を交えつつ、みっちりとご紹介しましょう。



【長宗我部元親って誰?】
平たく言えば、四国の戦国大名で一番有名な人です。
戦国時代を嗜まれている方なら大抵ご存知だと思います。

私が信長の野望で遊ぶ際は…………実はあまり選ばないのですが。
同じ四国の河野家で海賊マゾプレイをする際、
長宗我部さんの侵略にはよく怯えておりました。野戦じゃ絶対勝てないし。


……という話はさて置き。
彼の人柄や生涯について少しだけ触れましょう。



【若い頃の元親さん】
長宗我部家は土佐(今で言う高知県)の有力国人でした。
その最盛期を迎えるのが、21代目・元親の時です。

そんな元親さん、若いころは色白で貧弱、性格もおっとり?していた所があったのか、
「姫若子」と呼ばれておりました。女のような若君、という意味です。

家臣からは相当ナメられており、国親パパも嫡男にしてよいやら悩んでいたようです。

そんな姫若子さんが……



いやぁ、軟弱ってよく言われてさー

この人です。
銅像だからというのもありますが、激渋です。
落ち着きはありそうですが、軟弱には見えません。



【遅めの初陣】
初陣はかなり遅く、なんと22歳の時。
戦国時代の初陣は10代半ばまでに済ませるのが普通であり、かなり異例のケースです。

あまりにひ弱だったので初陣に出すのが憚られたのでしょうか。


初陣は長浜の戦い(戸ノ本での戦い)。
相手は同じ四国の国人であり、長宗我部氏における因縁の敵・本山氏。
どれくらい仇敵かと言うと、昔、元親の祖父が自害させられたくらい。


初陣の前日。
元親はある家臣に尋ねました。

元親「( ´_ゝ`)大将って兵の先を行くの?それとも後を行くの?」
家臣「将たるもの、本陣で堂々と振る舞い、むやみに先走ってはなりません」
元親「ふーん。ところで、槍ってどうやって使うの?


\槍ってどうやって使うの?/
だって槍使ったことないしー
大将とか初めてだしー


家臣「工エエェェ(´д`)ェェエエ工……て、敵兵の目と鼻を狙って突きます。(今頃こんな事聞くなよ)」
元親「おっけい」
家臣「('A`)(初陣どころか、討ち死にされそう……)」


という、トンデモな質問を現代に残した元親さんの姿が……



思ったことを素直に言っただけなんだけど


これです。
まぁ……銅像は元親さんの勇姿を表現したものですから、ええ。



さて。
この戦いにおける本山氏の兵力は2500人。
長宗我部氏側が1000人とされており、倍以上の戦力差です。



【元親さん、覚醒】
しかし元親は戦になるや否や、別人のように豹変。
自ら槍を持って騎馬武者2人を討ち取ります。
又、彼が率いた50騎は70余りの首を挙げたとされます。



とりあえず二人ほど首取ってみた



さらに元親は勢いに乗って、敵方の拠点に突入。
もぬけの殻となっていた城を堂々と奪うという手柄を挙げます。



城も空いてたので貰っといた


なんということでしょう!
かくして、戦場にて別人のような活躍を見せた元親さんは、
「姫若子」改め、「鬼若子」と呼ばれるようになります。



俺の土佐は俺のもの
他人の四国も俺のもの


そんな元親さんの銅像ですが、
右手は槍を持っている一方、左手はよく見ると
足元の四国を掴もうとする仕草を彷彿とさせます。男前ですね。


戦いは終始長宗我部方の優勢で進むものの、本山方を追撃する最中に
父・国親が急な病に倒れた為、兵を引くことになります。

まもなく国親はこの世を去り、元親が後を継ぐことになります。



【土佐の出来人】
当主となった元親は、本山氏を始めとした周辺豪族をたちまち従え、土佐一国を完全に平定。
更に阿波・讃岐・伊予へと軍を進め、四国統一を視野に入れます。

しかし、四国の覇者となる頃、元親の前に「彼」が現れます。



秀吉。



伊予・讃岐の返上を迫る秀吉に対し、
元親は伊予のみの割譲で済ませようとしたものの、突っぱねられます。

やがて10万を超える大軍が送られ、
防備を固めてこれに対抗しようとするも、たちまち戦線は崩壊。

結果、阿波・讃岐・伊予は没収され(最初の条件より厳しい…)、
土佐一国のみの安堵という条件で秀吉に降伏することとなります。



でも信長には「鳥無き島の蝙蝠」とか言われていたらしい


↑四国は俺のだー!と言いたげな元親さんの図。

ちなみに降伏後の両者の関係は(多少の警戒はあれど)、比較的平和で、
豊臣政権下でも元親は有力大名として活躍しました。


元親と秀吉の間には幾つか逸話があるのでご紹介。

1、秀吉との謁見の際、クジラをまるごと一匹(!)大阪城に運び込み、
それまでクジラなど見たことのない秀吉を大いに喜ばせた。

2、秀吉が大名を集めて舟遊びをした際、
元親は配られた饅頭の端だけをちぎって食べ、後は紙に包んだ。
理由を問う秀吉に、元親は「殿下より賜りし有難い饅頭なので、帰って家臣にも与えます」
と答え、喜んだ秀吉はその場で用意した饅頭全てを元親に与えた。

3、秀吉より「四国の覇者と天下人、どちらを望むか」と問われ、元親は天下に心を賭けると返す。
秀吉が「貴殿の器量で天下の望みは叶うまい」と応じると、
元親は「生まれた時代が悪かった為(=秀吉がいるので)、天下人になり損ねた」と言ってのけた。


秀吉の好みや性格を判った上で取り入っているようにも見えますが、
一方で自己主張も忘れず、言いたいこともちゃんと言っています。機転の効く人柄だったようです。



【最期】

鎧マニアにもお薦め

ここで一つ背中側の写真を。
戦国時代初中期くらいでしょうか。やや古風な雰囲気を残した甲冑の作りこみがかなり素敵。
鉄砲が広まると、大将クラスの鎧は鉄板の目立つ当世具足という様式に移行していきます。


さてさて。
土佐の出来人と呼ばれた彼の晩年ですが、決して明るいものではありませんでした。


秀吉に臣従した後、元親は嫡男・信親を伴い九州征伐軍に従軍します。
その際、戦上手で知られる島津家の策に嵌って敗走。
この戦いで後継者として目をかけており、家臣からの信望も厚かった信親が戦死します。
(信親の死が余程絶望的だったのか、元親は一時自害しようとした程です)



元親自身はなんとか逃げ延びたものの、
彼の行動が豹変したのは、それからの事です。



それまでの覇気はすっかり失われ、次男・三男が健在にも関わらず、
四男・盛親を後継者に指名して、家督相続問題を引き起こします。
更に反対する者は一族や重臣であっても粛清するという、異常に厳しい態度で臨みました。

裏には久武親直という盛親派の家臣による讒言があったとされますが、
嘗ての元親は度量も広く、このような讒言全てを真に受けるということは到底考えられない事でした。

秀吉が亡くなり、政情が不安定になる中、
関ヶ原の前年となる1599年、61歳にて元親はこの世を去ります。



長男に先立たれるなんて思ってもみなかったよ…



さらば、元親さん。



と、いうわけで。

●長宗我部元親公初陣之像 1/25レプリカ
土佐の出来人、さらば


の紹介でした!

造形・質感再現共、本当に見応えがあります。
場所を確保した上で飾れば、迫力満点です。

こうした戦国武将像は全国に存在しますが、
伊達政宗や武田信玄等、他のご当地大名も立体化されると面白そうです。



そんなこんなで本日はこれにて!
来週もホビーサーチをよろしくお願いします。



担当:トメ子@なんとなく長宗我部家でノブヤボやりたくなった。













【その後の長宗我部家】
大名としての長宗我部家はその後、四男・盛親が継ぎます。

関ヶ原では諸々の事情から西軍に加担。
戦後、家康に申し開きをするものの、
相続に前後して盛親は兄・津野親忠(元親の三男)を殺害していた事から
不義者として家康の怒りを買い、改易(お家断絶・取り潰し)の憂き目に遭います。
元親の死後、わずか1、2年のことです。


兄の殺害は久武親直の讒言に端を発するものだったのは言うまでもありません。
その親直は主家改易後、涼しい顔で加藤清正に仕えています……。


野に放り出された盛親は、その後大阪の陣にて豊臣方として参戦。
勝利の暁には土佐の主に返り咲きたいという願いがあったものの、
冬・夏の陣を経て、豊臣家は滅亡。盛親は逃亡するものの捕らえられ、処刑されます。


又、一領具足と呼ばれた長宗我部家の勇猛な家臣たちも
新たな領主としてやってきた山内一豊とソリが合わず、
内乱と鎮圧を繰り返した末に、郷士という下級武士として取り込まれていきました。

これにより、土佐には藩士(上士)と郷士(下士)という二種類の武士が存在するようになり、
厳しい身分制度は後に藩内にて激しい上下対立を引き起こしていきます。

余談ですが。
幕末、土佐藩において活躍した坂本龍馬や武市半平太等は郷士の出身です。



信親が生きていれば、四国の歴史は変わったかもしれません。本当に。












***こっそりコメント返し***

夏の特価品祭り開催中ー!より

>1/1スカルヘッドですが、メロンパン入りそうですね‥


……

…………その発想は無かった!

(メロンパンにフォークぶっ刺しながら)
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